「何かしてあげなくて」本当によかった

半年間のコーチングスクールを卒業。一番よかったことは?なんてとても選べない。

あえて今一つ選ぶとしたら、クラスメイトが最終日に泣いたこと。いい歳をしたおじさんが「自分の中にいる5歳の子どもの声を聞いた」と言って泣いたこと。

初日になんだか面白い人だなぁと思って、声をかけて二人でランチを食べた。スクールに参加した理由は?と聞くと「何が自分の幸せなのかわからない」と言っていた。立派な企業に勤めている。かわいい妻も娘もいる。だから幸せであるべきなんだけど、と。

朝から晩まで仕事、部下の指導、残業、帰ったら家事、育児。それだけでも目が回りそうなのに、彼は早朝や深夜の時間を使って猛烈にコーチングの練習をしていた。どこからどう見ても異常だった。何かに掻き立てられ、何かに取り憑かれたようにスケジュールを埋めていた。

本当は、あの店で話を聞いた時からずっと、なんとかしてあげたかった。自分を大切にして。ゆっくり休んで。放り出してもいいんじゃない?スクールなんて来なくていいよ。コーチング学ぶより受けたほうがいいんじゃない?まずは自分を満たすことからだよ。そう伝えて無理矢理にでも止めたかった。行き先のない暴走列車みたいだったから。

だけどそうしなかった。「変えようとするな、知ろうとせよ」と初日に先生から教えられた言葉を繰り返した。何度も口出ししそうになって、言葉に出来なくて、「また二日酔い?」とふざけた言葉に、バシンと背中を叩く手のひらに何か乗せられたらと思いながら。

スクール最終日の前日。講義中に彼はポロポロ涙をこぼしていた。重度の花粉症かな?と思うぐらい、泣くような文脈じゃなかった。昼食を食べながら、「スクールも終わる、会社でも最高評価をもらった。だけど、全然幸せじゃないんよね。そんな自分がかわいそうだなって思って」と彼は語った。その言葉を自分の体の中に反響させる。それって、どんな痛みなんだろう。どこがどんなふうに痛むんだろう。ガンガン反響させて、でも分かり切れるはずもなかった。自分の中にある、近しいけど全然違う経験の端っこを少し話すことが精一杯だった。「今日よかったら飲みに行かない?」と彼が言った。明日があるから、と一度は断ったけどやっぱり行くことにした。今日、彼は一人では耐えられないような気がして。結局その夜は彼の周りにたくさんクラスメイトが集まって、10人近くで飲むことになった。

最終日、彼は2時間近く遅刻してクラスに現れた。あのあと深酒したんだろうとイジリに行ったら、「日比谷公園を散歩してた。自分の中にいる5歳の俺を旅行に行かせてあげたくて。俺、小さい時貧乏で旅行なんか行ったことなかったからさ」と言った。「どうだった?」と聞いたら、「日比谷公園は微妙だったみたい」と笑った。「確かに、子どもにはつまらんからもね」と私も笑った。

卒業のスピーチで、彼は「今まで自分は何が幸せなのかわからなかったけど、今日は自分の中にいる5歳の子どもの声を聞いてみました」と言って肩を震わせた。抱きしめて「よかったね、その子の声聞けてよかったね」と言った。立派な身体のどこかにいる、5歳の男の子にこの体温を伝えたくて、もう一度抱きしめた。

彼に「何かしてあげなくて」本当によかったと思った。彼に変化が起きるために半年かかったけど、それが大事だったんだ。彼が自分で変わっていくのに、必要なだけの時間、必要なだけの経験だったんだ。

私が「何かしてあげた」ら、結果は全然違っていたと思う。自分の底から突き上げてくるような涙や、内側から自分を揺さぶるような震えは、きっと起こらなかった。

知りたいな、の一心で話を聴くこと。声を体に反響させて痛みを感じようとすること。何かをしてあげたくなったら、自分を疑うこと。なぜならこの人は自分でできる人だから。存在を使って側にいること。自分ができる分だけ、手のひらや胸の温かさを分け合うこと。そして待つこと。必要なだけ。

(この文章は本人の了承を得て投稿しています)