いいカウンセラーになりたければ、カウンセリングをいっぱい受けて

カウンセリングを学ぶという過程が、こんなものだとは予想もしていなかった。これが正しいカウンセリング道なのかどうかはわからないし、正しさなんてないのかもしれないけど、今のところこの過程を私は「セルフ開腹手術」のようだと感じている。無論、そんな言葉はない。ブラックジャックがキツネに噛まれ、屋外で鏡を見ながら自分の腹部を開き、エキノコックスを取り除く。あのイメージである。

カウンセリングを学べば学ぶほど、蛆虫が湧くみたいに自分の体からいろんなものが出てくる。できれば目を向けたくなかった自分の嫌な部分、弱い部分。例えばカウンセラーになりたいと言いながら私は、カウンセリングをすることをとても恐れていた。クライアントに依存されるのではないか、いや依存させるのではないか。あまったるい言葉で子どもの可能性をゆっくり腐らせていく毒親みたいに、ずぶずぶに甘えさせ、依存させ、共に沈み、そして抱えきれなくなったら手放すのだ。傷を癒すどころか、新しく深い傷を負わせて。先生に相談したら、「一度あなたがセッションを受けたほうがいいかもね。僕でよかったらやりますよ」と言われた。え、私が。心の中で呟いた。だって、鬱病は克服した。その後も、何度も死にたい自分と向き合ってきた。そして自分のやりたいことを見つけた。自分を大切にする方法も学んだ。今の私は、問題なんてないはずだ。人生2回目の悟りの境地に至った気分だったから。

「本当はこんなふうにクライアントに関わりたいっていうのを教えてください」

私は自然と肩の力が抜けていて、ふわーっとあったかい場があるような感じ。クライアントさんはそのあったかさの中で静かに揺れるように居て、赤ちゃんがお腹の中で聞いている音みたいな、そういう音が聞こえてくるようなイメージ。ここは安心できて、安全な場所。クライアントさんはここにいると、自然と自分が生まれてきた理由とか、自分の命の形とか、そういうものに触れていく……。

理想を語っているのに、なぜかずっと涙が止まらなかった。これは、私が本当に欲しかったものだ。死ぬほど欲しかったものだ。

「カウンセリングが怖い」という私の奥の奥に手を入れていくと、「愛してあげたい。でもできない」というか細い声があった。

「自分ができる範囲で手伝いたいっていうのはいいんだけど、私は愛してあげなきゃいけない。それができない自分は申し訳ないっていう自分はどこからきてる感じですか?」

何度も涙を飲み込みながら探す。どこからだろう。どこから……。

やっぱり鬱になった時かな……。学校にも行けなかったし、受験もできなくて、何にもない自分が、「ここに生きていていい」って思えなくて。もし何にもない自分がここに生きていてもいいって思えてたら、あんなに苦しくなかったんじゃないかなって……。

まるで全力で首を締めながら、全力で酸素を貪ってるみたいだった。体は冷え切ってるのに、流れる涙が本当に熱かった。あのとき、誰かが言ってくれたらよかった。「何言うてんねんアホ!なんにもできんでいい。ベッドから立ち上がれんでもいい。ニートでもひきこもりでもなんでもござれや!死にたい?ええやんか。それでもええねん。そこにおったらええ。おったらええんや!」そう言って思いっきりぶん殴って、そして強く抱きしめてほしかった。全身でわからせて欲しかった。「なんにもなくてもええ。ここにおってええんや」と。誰かに言って欲しかった。誰かに。誰に?——自分自身に。

大きく開いた穴は、やがて表面が乾き、かさぶたができたり膿んだりしながら、ゆっくり薄い皮が張られていった。ベッドから起き上がれるようになって、ご飯が食べられるようになった。勉強ができるようになって、みんなのように大学に通い始めると、もうその穴のことなんか忘れてしまっていた。行き交う人とわざわざシャツをめくって裸を見せ合わないのと同じように、その頃には大事なのは何を着ているかであり、もっと言えばその服のブランドはなんだとか、流行りがどうかということだった。

だけどこの穴はずっとここにあった。えぐられた肉はそのままになっていて、時折はげしく軋んでいた。軋みながら、私に何かを訴えていた。

「私は与えたいのだ。なぜなら、私がそれを得られなかったから」という話は、本当によく聞く。そしてとても美しい。国や時代を超えて存在するので、人間のかなり普遍的な部分なのかもしれない。だけどそこに恐れがあるかどうかを、繊細に嗅ぎ分けなければならない。

私はごっそりえぐられた穴にさまざまな布を重ねて、他の誰かの穴をせっせと埋めようとしていた。注意深く見るとそれは、美しいどころかおどろおどろしかった。強迫観念めいていた。他人の穴を埋めている間だけ、自分の穴を忘れることができると言わんばかりだった。

そうか、私はまだ癒されてなかったんだ。自分自身によって。

もういいんだよ、頑張んなくて。誰かになろうとしないで

と、言った。抱きしめた。自分のことを。

貸し会議室の窓から注ぐ光が温かかった。晩秋に似つかわしくない温かさだった。

あのセッションからおよそ半年が経つ。今、「自分は自分でいい、そのままここにいていい」と100%思えているかと言うとそうではない。だけど少なくとも、そんな自分に気がつけるようになった。そして少なくとも、自分の穴埋めたさに他人の穴を埋めようとは思わなくなった。

カウンセリングの基礎の基礎である傾聴。

その傾聴を支える三条件に、共感的理解、無条件の肯定的関心、自己一致がある。この三条件がひたすらにシンプルで、ひたすらに難しい。共感的に理解しようとすると、共感したくない相手や話題がある自分に気づく。相手のことを無条件に肯定しようとすると、どうしても外せない条件を持っている自分に気づく。自分の言動と思考や感情を一致させようとすると、無視できないほどのズレがあることに気づく。真剣に傾聴しようとすればするほど、それが切実に迫ってくる。私はその度に自分の腹を開いている。一度開いたけれど、やっぱり勇気が持てなくてそっと閉じたものもある。

「いいカウンセラーになりたければ、カウンセリングをいっぱい受けて」

その言葉は最初、とても意外だった。

カウンセラーはお釈迦様みたいに悟りを開き、おだやかで、そして強い人じゃないとなれないのだと思っていた。

だけどそんなことないのかもしれない。

カウンセラーも所詮同じ人間だ。どうしようもない弱さや、過去の傷や、直面している問題がある。所詮同じ人間だけれども、弱さを受け入れるということや、過去の傷は癒せるということ、問題に直面する勇気を持てるということ、そして人は変われるのだということを、クライアントよりも先に信じ、先に自分の身体を以て取り組んでいる人なのではないか。自分が自分の人生を生きるために、そしてクライアントに心からそう伝えるために。

私のセルフ開腹手術はまだまだ続きそうだ。目下、二箇所の手術を始めたところである。

共にカウンセリングを学ぶ仲間が「1年かけてセッションを受け続けて、昨日ようやく『私はここにいていいんだ』って感じられるようになったんだよ〜」と話してくれた。1年間、彼女は真摯に向かい合ってきたんだ。何度も開いたり閉じたり、メスを入れる角度を間違えたりしながら。手術痕はとても綺麗とは言えないかもしれない。だけど、だからこそそれが本当にかっこいいんだ。震える手にメスを握らせてくれたり、よく見えるように鏡の角度を調整したり、目に染みる汗を拭いてくれたりした。そうやって彼女のそばにはカウンセラーがいたんだろう。傷のある一人の人として。手術の痛みや術後の喜びを知る仲間として。